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富山地方裁判所 昭和32年(わ)200号 判決

被告人 穴田夏枝

主文

被告人を懲役三年に処する。

未決勾留日数中六〇日を右本刑に算入する。

押収に係る刺身庖丁一丁(証第一号)はこれを没収する。

訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、中農の家庭に育ち、土地の小学校を優秀な成績で卒業した後金沢大学附属病院看護婦養成所に入り五年間勤続し、昭和二一年七月頃坂本良成と結婚して家庭生活を営むに至つたが、夫良成の身持ちの悪いところから同二三年一二月頃二児を引取つて離婚し爾来実家に戻る気にもなれず養育費に追われて心ならずも金沢市内の紅燈の巷に足を踏み入れてからは、主として石川県、富山県下の料亭で芸妓として働き乍ら転々し、昭和三〇年九月頃は富山県中新川郡上市町の上市厚生病院の看護婦として富山市内の止宿先から通勤していたが、その通勤の途上偶々曾て昭和二五年暮頃から翌二六年の夏頃迄金沢市内で同棲したことのある本件の被害者山本保(当三八年)と再会した。当時同人は土建業を営んでいたものの金融方面では相当苦慮していた模様で同人から「病弱の妻を離別し、将来お前と結婚したいから金融に力をかして欲しい」旨度々言い寄られるや、被告人としては曾ては芸妓から身をひかされて同棲までした男のことであり、且当時は市内某から月々可成りの額に上る生活費の補助をうけ、日々の生活には事欠くような状態ではなかつたが、被告人も齢既に三〇才に達した頃ではあり所謂日蔭者の生活を清算し健全な家庭生活に入りたいと熱望していた矢先でもあつたので、右山本の言葉を信頼し同人のために金融にほん走すればゆくゆくは同人と結婚して家庭生活を営むことができるものと一途に考え、爾来山本のために或は知人を頼つて金を借りてこれを与え、或は長年に亘つて貯えた自分の衣類なども質入して金策し、或は自ら苦界に身を沈めてその前借金を手渡すなど一意専心山本の事業資金の援助に心をくだき、このため昭和三二年夏頃迄には被告人は黒田シゲに約十万円、西田むらに約十一万円の借財を残したのを初めとして殆んどの衣類等も質入れに使い果し、相当巨額の金員(約七、八十万円位と推定せられる)を同人の事業資金などに融通した。これに反し山本の被告人に対する態度は被告人の金策が意の如くならなくなるに従つて次第に冷たくなり、当初の結婚の話はおろか右黒田、西田などから借りた金の返済までも被告人の責任になすりつけて一向にこれを意に介するような風にもみえなかつたので、被告人としても自分の生涯をかけた愛情と誠意を踏みにじる冷酷な態度に憤激の情を燃やしたもののこの儘同人との関係を断ち切ることも情において忍びず、さりとて同人が応じないままに自分の信用で借りた黒田、西田の前示借金の返済をこれ以上延ばすことも自分の気持として許さず、ために被告人は山本に対する愛憎交々日夜懊悩を重ねてきたが同三二年一〇月一二日に至りいま一度山本の許に行き、同人の真意を確め併せて借財の問題をも解決しようとして同日正午頃上市町に赴き右山本に会つたが、同人は当日上市町長選挙運動のため全く多忙を極めていたため、被告人に対して誠意ある解答をなさず却つて邪魔者扱にするような態度を示したので被告人は茲に至り山本の心は既に被告人を去つたものと考え悲歎絶望の余り、もうこうなつた以上は同人を刺殺し自分の将来も亦天運に委すより方法がないと考え、上市町内において刺身庖丁を買受け、これを羽織下の帯の間に秘かにしのばせて山本の後を追い、同日午後五時頃上市駅構内で同人と二、三問答を交した後、同人と共に同駅横の公衆便所内に入り同所において被告人から強く山本の態度を難詰したところ、窮地に追い込まれた同人は却つて被告人に反抗するような態度に出たので被告人は茲に至り即刻殺意遂行の決意を生じ矢庭に帯の間にしのばせていた前示刺身庖丁(証第一号)を抜きとり同人の背部を突き刺し因て即時同所において、同人を右肺臓刺創により死亡するに至らしめたものである。

(証拠)(略)

なお弁護人は、被告人は本件犯行当時心神耗弱の状態にあつた旨主張するのでこの点について判断するに、前示証拠に依れば、被告人は本件犯行当時山本に裏切られた悲しみと憤り、弁済を迫られている借財の処理、更には自己の将来の絶望的な見通し等により日夜苦悩していた上犯行直前に飲んだ酒の勢いや犯行当日は生理日であつた事情も複綜して神経がたかぶり可成り心神が惑乱していた状況が認められないわけではないが、被告人の司法警察員並びに検察官に対する供述等に於て自己の経歴を初め本件犯行の動機、手段、方法などについて相当詳細に前後矛盾のない供述をしていること、並に当公廷に於ける供述態度に徴し被告人は本件犯行当時是非を弁別し、またはその弁別に従つて行動することが著しく困難な状態にあつたものとは認め難いから、弁護人の右主張は採用しない法(法令の適用)律に照すと、被告人の判示所為は、刑法第一九九条に該当するので所定刑中有期懲役刑を選択し、その刑期範囲内で被告人を処断すべきところ、その量刑の点について考えてみるに、被告人は判示の如く最初の結婚生活に失敗したのを契機として、運命の下向を辿り人生の裏街道とも謂うべき巷を歩み続けることを余儀なくされたようであるが、その間生来勝気で律気な性格と認められる被告人はこうした生活環境から早く脱却し正常な家庭生活に入ることを念願し人一倍の努力を傾け、且その希望を本件の山本の事業を経済的に援助することによつて達成すべく同人のため粉骨砕身誠意を尽したことが認められる。これに対する山本の態度は必ずしも被告人の誠意に報ゆるに充分とは謂えず却つて結婚の甘言を以て被告人を利用した形跡さえ認められるようである、結局本件は判示の如く山本の不信な態度に対する被告人の悲歎絶望の果ての犯行と認められるのであつて、被告人の現在の心情そのものはまことに哀れであり、当裁判所も亦同情の眼を以てこれを理解するものである。而して一面本件の犠牲となつた山本保は齢三八才の働きざかりであり世の父親と同じく家庭には妻子を抱え一家の主柱としてその家族を扶養せねばならぬ地位にあり、この者を失つた遺族の悲歎は全く想像に絶するものがあろうし、またその将来はまことに危惧せられるべきものがあると認められ、このことは被告人に対する刑を量定する上において充分斟酌せらるべきものである。殊に被告人は山本家の家族の状況は前以て充分知悉していたのであり、また本件犯行に至るまでの経緯を仔細に検討すると、前示の如く被告人の山本に対する誠意は充分にこれを認められるに拘らず、その表われた行動は被告人自身の欲求を追及するに急であつて、妻子ある他人の立場を充分に理解する寛容さに欠けた嫌があり、今少しくこの寛容さと熟慮を重ね、人の親、人の夫たるの立場に想いを致すならば本件の如くその遺族の将来に測り知れぬ苦悩を与えるような犯行はこれを思い止るべきであつたとの批判の余地が尚残されている事案と認められるから被告人は本件犯行をたやすく敢行したことについて責任を負担せねばならない。当裁判所は以上のような諸点を綜合して被告人に対しては懲役三年の実刑に処するのを相当と認め、同法第二一条により未決勾留日数中六〇日を右本刑に算入し、押収に係る刺身庖丁一(証第一号)は被告人が本件犯行に使用したものであり、被告人以外のものの所有に属しないから、同法第一九条第一項第二号第二項によりこれを没収し、訴訟費用は刑事訴訟法第一八一条第一項により被告人にこれを負担させることとし、主文の通り判決する。

(裁判官 野村忠治 日野原昌 木村幸男)

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